新田丸(NITTA MARU)
日本のオールドタイマーの客船を。
日本の海運・クルーズ船オペレーターの雄、日本郵船(NYK)新田丸 1万7150tです。
この船は同社が1938年に欧州航路向けに国の援助を受け同型船3隻竣工を目指したもので同船はその第一番船として1940年3月に就航しました。当時としては2万t弱の中型客船ではありますが均整の取れたモダンで美しいデザインの船でしょう。
二番船八幡丸、三番船春日丸の名前とともに同社NYKの頭文字から命名されたことは有名な話です。
時代は日本が太平洋戦争へと向かっていった時。この3隻は当初から軍事徴用として空母への改装が可能なように計画設計されていました。その為に搭載機関としては船容には不釣り合いの高出力をひねり出す三菱の軽量高性能型タービン機関を二基搭載されました。新田丸、八幡丸は取りあえず客船として就航し(ただし欧州航路への就航は時勢柄危険と判断され太平洋横断航路:シアトル/サンプランシスコ路線に投入されます)、その後太平洋戦争開戦とともに空母に改造されました。
三番船の春日丸は建造途中に空母へと改造変更されたので客船としての姿は日の目を見ていません。客船としての活躍期間は2年半と短かった同船ですが、当時の欧州競合勢の豪華客船に対抗すべく公室やファーストクラスの設備には贅をつくし、特に客室には暖房と供に冷房装置を配するなど世界初の試みも。
残念ながら同船は1942年11月に空母沖鷹として改装された一年後に米国潜水艦セルフィッシュにより八丈島沖で撃沈されてしまいました。
このモデルについて
モデルはCMKR社 1/1250スケール ダイキャスト製。
全デッキが丁寧に塗り分けられている珍しいタイプ(写真1及び2枚目)。
ただ型が古いのか、左舷に大きな傷が2か所、操舵室下のハウスの上に大きなこぶ状のバリが付いていました。まずはこれらの整形からスタートし追加修正した点は以下の如く。
1)左舷側の傷の埋め直しと塗装修正
2)全部の大きなこぶ状張りの除去と再塗装処理
3)船首の波除形状の研磨修正と片側2か所のボラード表現を塗装追加
4)全マスト類を濃茶から濃い目のクリームイエローへ塗り替え
5)後部マストに扁平五角形ショートヤードを追加、その少し下から上を黒で塗分け。
6)ハウス部の船窓に墨入れ
7)ファンネルの日本郵船ラインを微修正(もう少し各色ライン幅を広げたいところ)
8)ライフボートのロープ表現を追加
9)船首及び船尾のフラッグポールを0.2mm径の真鍮線で追加
10)クレーンブームを下げた位置に変更修正
11)船体に日本の非軍事船であることを明示する日本国旗を追加
欧州航路からサンフランシスコ航路への転身時をイメージして:ハセガワの1/700ウォーターラインプラモデルのボックスアートを参考に。
この国旗はもハセガワの1/700プラキット新田丸のジャンクから船尾国旗のデカールを流用しました(寸法がぴったり)。台紙のまま切り抜き粘着剤でつけただけなので取り外し可能としてあります。
このモデル、プロムナードデッキの窓類が心持ち小さすぎる様ですが、そこまで修正改造するとリューターでの蝕刻等の大工事になってしまうので断念しました。
浅間丸(ASAMA MARU)
日本郵船(NYK)がフラッグシップとして1929年10月に北太平洋航路に投入した豪華客船「浅間丸」1万6950総tです。
同姉妹船として龍田丸、秩父丸(後日鎌倉丸に改名)が建造されています。
政府援助の下、三菱重工業長崎造船所で建造された浅間丸は横浜-ホノルル-サンフランシスコを結ぶ北太平洋航路に投入され当時の米国、カナダのライバル客船に対抗すべくデビュー。その内装の豪華さから多くの著名人が乗船し、姉妹船共々太平洋の女王と呼ばれた船です。
3番船の秩父丸のみは横浜船渠で建造され、浅間丸・龍田丸の機関形式であったディーゼル4基4軸駆動からディーゼル2基2軸に変更されたため一本ファンネルの船としてデビューしています。
1937年9月に台風で大荒れの香港沖にてその後枢軸同盟国の僚船としてコンビを組むことになるイタリアの豪華客船コンテ・ヴェルデ号と接触・座礁するも、サルベージに成功して1年後に定期航路に復帰しますがすぐに開戦に備えて海軍に徴用されました。
太平洋戦争時には開戦国に残る互いの民間人や外交官の相互帰国のために取り決められた交換船としてコンテヴェルデ号と共にその任務を果たしました。
1944年兵員輸送船として任務に就いていた浅間丸は2月に台湾沖で米国潜水艦の魚雷攻撃にて船体に損傷を受けましたがなんとか切り抜け生還。修理後の11月、復帰任務でレイテ島からの帰路においてまたもや米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没してしまいました。
このモデルについて
ALBATROSの1/1250スケールのダイキャストモデルです。
デッキ構造物、とりわけブリッジ周りの船首楼造形はいいのですが船体の高さが寸足らずで大きな損をしているモデルです。
船体に引かれた白線ラインから喫水までのほんの少しの高さなんですがね......
ここはまずこの見栄えの修正にチャレンジしてみました。
とは言え要領は簡単。オリジナルモデルの喫水下のレッド塗装部分を船体塗色のフラットブラックで塗りつぶし、その後プラバンで嵩上げしてその部分を喫レッド塗装にしただけです。
これだけでもぐっと浅間丸の雰囲気に近づいたと思うのですが。
船体高さ修正後
嵩上げ方法
オリジナルモデル
船首部
船体中央・後部
修正後船尾から
氷川丸 HIKAWA MARU
日本郵船が北米シアトル航路用客船として1930年横浜船渠(現三菱重工業横浜造船所)にて竣工させた氷川丸11600総t。
姉妹船日枝丸に三番船の平安丸も大阪鉄工所に発注され、ともにHから始まる神社の名前を冠した三姉妹船として横浜-シアトル線にデビュー。その内装やサービスの高さから注目を集め、中でも氷川丸は多くの有名人を魅了したと言われています。
この氷川丸は太平洋戦争を生き残った数少ない客船でした。
太平洋開戦の暗雲立ちこめる中1941年にシアトル線の閉鎖が決まるとまず日本政府の交換船として運用され、後に海軍病院船に転身。この氷川丸は戦時中は病院船として徴用されていたのが幸運だったと言えるでしょう。
残念ながら日枝丸と平安丸は大戦中に特務潜水艦母艦に改装・徴用されていたため米潜水艦や雷撃機によって撃沈され喪失しています。
戦後は引き揚げ船として活躍した後12年ぶりのシアトル線に復帰、1960年年末に定期航路船として除籍され解体とされましたが横浜市民の保存嘆願の結果、翌年から山下埠頭に記念船として係船、ミュージアム船として現在に至っています。
このモデルについて
ポセイドンというメ-カ-の1/1250スケールのダイキャストモデル。
まあファンネルの日本郵船ラインと外観から氷川丸かな?といった出来のものです。
値段が安かったのと今となればレアな船体なので取り寄せました。
届いたモデルは「何じゃこれ?」(写真を見てくださいね:笑)といったものでしたが、これじゃ如何にも可哀想で何とかしてやろうと、ファンネルの日本郵船ライン以外は完全再塗装です。
①先ずウェルデッキや船首ラインを研磨処理後
②ハウス部白色塗り分けラインを下げてハウス部の高さを稼ぎながら
③大きく開いたプロムナードデッキ開口部下部を位置を嵩上げ
④船体に0.5mm白アートラインで一本ラインを再現
⑤マストやデリックは黄土色に全面塗り替え
⑥ブリッジ部を焦げ茶で塗り分けて
⑦船倉部ハッチももう少し濃いめのグレーに切り替え
等改修しました。
後はデッキですが気力が続かず.........少しは氷川丸に見えます?
オリジナル
改修後
改修後の後姿
「氷川丸」再び......
当ミュージアム開館当初から何度かご来館いただき展示品の説明の誤記等に関して貴重なご意見や情報をいただく等のお世話になっていた方から今回ちょっとした縁あってこの貴重な氷川丸をいただきました。
日本の客船コーナー展示中の先代モデルがあまりに稚拙で(今でも病院船に模様替えして販売している)、先の戦火を生き延びた日本の大洋横断客船として文化財指定され、横浜山下ふ頭にて海上展示されている程の有名な船には相応しくないとずっと心を痛めておりました(また大げさな.....)。
今回このような出来の良いモデルをいただき感謝、感謝です。
少しダメージがあるとのことでしたが塗膜が経年劣化のためか下地への密着性が低下している様ではがれやすくなっているのは致し方なく、船体部の剥離や船楼部の塗り分けラインもマスキング等を慎重に行って修正塗装。数本ズレていたデリックブームの再接着、すべて白塗装のデリック部を横浜で係船展示中の写真を参考にして少し明るめのタンに塗りなおしました。後はベンチレータの内部を黒く塗装した位。
船体のホワイトラインは極細の筆塗りラインが引かれていたのですが今回0.5㎜のアートラインテープに置き換えてみました。もう少し上側に張りなおしたほうがいいですね。
そうそう、この氷川丸を当館に贈呈してくれた方も大のシップモデルファンで1/1250スケールモデルのコレクションだけにとどまらず図面からのフルスクラッチで同スケールの豪華客船を作り上げてしまう方です。
作品をご自身のブログにアップされています(必見ですよ)。
お気楽客船ファンⅡ GIULIO CESARE (fc2.com)
今回もシップモデルの鑑賞の仕方について改めて勉強させていただきました。
イタリアラインの船にはタンブルホーム(簡単に言うと下太りの船体断面形:怒られるなこんな説明しちゃ笑)の船体が最近まで採用されていたことに改めて気づきました。
このタンブルホーム、古いガレオン船や戦艦だけと思いこんでましたが当館展示中のイタリアラインのEugenio Cや現役のクルーズ船コスタ・クラシカにまで採用されていたようです(設計図で確認したわけではないのですが展示中のシップモデルには再現されてます。Eugenio Cは当時の就航写真でもわかりますね)。
古くからの海洋国イタリアならではの考え方なんでしょうか。
船首より
船尾より
報国丸(HOKOKUMARU)
新田丸とその姉妹船と同様に大阪商船が国の新造船助成により建造した報国丸級3船の1番船です。
建造所:三井造船
運用開始:1940年就航
総トン数:1万437t
姉妹船には愛国丸、興国丸(護国丸と改名)がありましたが正規の貨客船としてデビューできたのはこの報国丸のみで南アフリカ航路に就航しました。
しかし第二次世界大戦勃発と拡大によってこの客船としてのサービス期間も短く、建造時助成金の交付条件である有事の際の海軍徴用として特務艦に改装されます。
ただし新田丸級とは異なり3姉妹船とも空母ではなく特務船(特設巡洋艦や輸送船)への改装であったため辛うじて貨客船の外観はそのままとされましたが3隻とも特務任務中における雷撃や戦闘砲撃により沈没喪失しました。
このモデルについて
CMKR社 1/1250スケールダイキャストモデルです。
特務艦船容のモデルも販売されていました。
ご覧の通り船窓類の彫が深く、艦橋楼やプロムナードデッキ前の船窓を除いて墨入れは必要ないと思います。あとはデッキの塗り分け程度で十分でしょう。
非常に出来の良いモデルと評価しています。
後姿
船首部
船体中央部
船体後部
新さくら丸
1972年、日本産業巡航見本市協議会が三菱重工業神戸造船所で竣工させた国際見本市船のさくら丸 1万3000総t。
日本の産業技術や産品を展示して世界の港を回りながらそれらをアピールするために造られた船で移民船としても活用されました。
当初は船首から2/3が貨物倉、船尾の1/3が船楼といった典型的な貨客船でしたが、高度成長期、日本の貿易が大きく黒字に転じた時代をもってその使命を終え1981年商船三井に船は譲渡され見本市協議会も解散に。
商船三井はクルーズ船として大幅な改造を施し「新さくら丸」1万5000総t級として再デビューさせました。このモデルもその当時の姿です。
ブリッジ(船首楼)を前方に移し、客室スペースが大きく拡大された純客船として生まれ変わっています。
1990年にはさくら丸時代からの船首デリックポストを撤去し、船首楼前に大きなイベントホールハウスを増設してビジネス向けチャータークルーズに力をいれました。
残念ながら1999年9月にファンに惜しまれつつ引退し、解体されています。
クルーズ船としての内装、設備は豪華なものではなかったようですが老舗商船三井の他船に劣らないサービスを提供しながらも安価な価格帯で利用できるとあってファンからも愛され、日本にクルーズビジネスを根付かせるべく奮闘した古参船でした。
このモデルについて
HB Modelsの1/1250スケールダイキャストモデルです。
塗装や船体造形は非常に繊細な出来で手を加える必要はないと思います。
船首のボラート、錨の巻き上げ機位やレーダーを追加塗装した位です。
当時の写真を参考にして拡張された船体中央部ハウスのスポーツデッキ上にそれらしいデッキ上のパターンをインクジェットプリンターで印刷した緑のシートを載せました。
オリジナルモデル
改修後
オリジナルモデル
改修後
拡張ハウス部
改修後拡張部
にっぽん丸(NIPPON MARU)
日本の老舗船会社、商船三井が本格的クルーズ船として1990年にデビューさせた「にっぽん丸」2万1900tです。
商船三井は1964年に前項の大阪商船と三井造船が合併し出来た船会社です。
造船所は三菱重工神戸造船所で商船三井の同名船としては3代目となります。
クルーズ専用船として設計されたため約8割の部屋が海側アウトサイドルームにレイアウトされており、小さめな船体ながら中央部のトップデッキにラウンジを設け、その後のファンネルとの間にスライディングルーフ付きの全天候プールが配置されています。
2009年~2010年に大改修を実施し、トップデッキに新たにハウスを新設して公室スペースのレイアウトを変更すると供にゲストルームのアコモデーションの一新し、船体を濃紺に喫水上にホワイトの帯を加えて再デビューしました。
個人的には改装前のこの姿の方がデザインに無理がなくいいと思うのですが。
このモデルについて
HANSAの1/1250スケールのダイキャストモデルです。
デッキは綺麗にタンで塗装されておりカブリも最小で同社のモデルとしては非常に出来の良い部類に入るでしょう。
到着した時に左舷船体の下部塗装が少し剥がれていましたのでまずここは直ぐに修復。
その他の改修箇所は以下の通りです。
1)喫水線部のブルー塗装部が少し細めなので心持ち幅を稼ぎました。
1mm幅のアートラインを重ねてみたところ2段(2mm)幅がベストかな?と。
2)船窓類に墨入れを実施。
3)ファンネル基部の紺青色の塗装部分について船尾側の背面が無塗装なので同色
で塗装
4)ボートデッキは後部のベランダスペースのみがタンで塗装されていますが前方
のボート下は無塗装なのでここも同色で塗装。
5)レーダーマストとラウンジの間に2003年ごろに増設された衛星通信・放送受信
アンテナを格納する大型レドームを増設
6)船首部アンカ-巻き取り機器類と両舷のアンカ-を黒で追加塗装。
7)船首にアルファベットの船名がデカール処理されていますが文字が大きすぎる
のでこれを除去して手書きで和名の船名を入れました。
後日インクジェットプリンタでできるデカールで置き換える予定。
8)船尾も手書きで「にっぽん丸」の船名を入れてあります。
改修前船首より
改修後船首より
改修前船尾より
改修後船尾より
Orient Venus
オリエントビーナス
新日本海フェリーが石川島播磨重工業にて建造し1990年にデビューしたクルーズ船オリエントビーナス2万1993tです。
この年には先にご紹介した老舗船会社商船三井の本格的クルーズ船「にっぽん丸」2万1900tもデビューしています。
オリエントビーナスは日本クルーズラインによる日本生まれの生粋の日本船籍のクルーズ船の一隻として2005年まで活躍し、海外オペレータに売却された後何度か移籍を繰り返しその度に船名を変えていますが現在もギリシャのクルーズ船Aegean Paradiseとして現役です。
1998年には本船の代船として姉妹船ともいえるパシフィックビーナスが建造されました。パシフィックビーナスでは船首楼に日本郵船初代飛鳥の様なスタイリッシュなデザインを採用していますがこのビーナス姉妹船に共通したデザインとしてファンネルに設置されたトップラウンジが特徴的です。
またコンパクトな船体ながらダイニング、サロン、メインラウンジやショーラウンジ等を十分な広さで確保、これらパブリックスペースをゲストの移動動線を考慮して3階フロアーと船体後部に集め、船室は全てアウトサイド仕様とする先進的な配置がなされていました。
このような豪華さとともに使いやすさの両立が徹底された船内設計故にいまだに現役で活躍できているのでしょう。
このモデルについて
HANSAの1/1250スケールダイキャストモデルです。
デッキは綺麗に塗装されていて、カブリも最小。
同社のモデルとしては先のにっぽん丸以上の出来の良いものと思います。
またこのモデルの塗装はラッカー系シンナーにも耐性がありラッカー系塗料で船窓の墨入れが簡単に処理できました。
HANSAのモデル全てが可能かは定かではありませんが可能性は高いでしょう。
その他の改修箇所は以下の通りです
1)船窓類に墨入れ実施
タミヤX-23クリアブルーを船窓の窪みに置いていくように塗り、余分なラッカー塗料を綿棒でロールアップするように拭き取っていきます。
最後にラッカーシンナーを軽く含ませた綿棒の先で軽くぬぐえば処理は完了。
ブリッジと船体後部の大窓のみタミヤのラッカ-塗料X-1を使いました。
1) ラッカー塗料の塗布
もっとはみ出していてもOK
2) 乾いた綿棒で一次拭き取り
3) ラッカーシンナーを浸込ませた綿棒で軽くぬぐえば完了
2)デッキ塗装の被り部分(ほとんど目立ちませんが)を修正
3)喫水線下のブルー(ライン)を修正
改修前
改修後
改修前の後姿
改修後の後姿
さんふらわあ2
日本高速フェリー「さんふらわあ」の2番船、1972年1月の進水時にはサンライズという名前で就航を目指していましたが初代さんふらわが予想を超える人気を得たことから同年5月の就航時に「さんふらわあ2」と再命名されて名古屋ー鹿児島航路に就航しました。
その後さんふらわ5、8、当時日本最大級を誇った11と建造されたさんふらわ五姉妹の一隻として日本のフェリー事業におけるエポックメーキングを造りました。
しかしながら1976年、日本高速フェリーの事業縮小からさんふらわ/さんふらわ2は係船とされ、その後両船は商船三井系の太洋フェリーに譲渡され大阪ー苅田航路に就きました。
さらに両船の転売受難は続き、1984年に関西汽船のフェリー2隻との交換売却で阪神-別府航路への最後のご奉公に。
1997年の引退後、フィリッピンに売却されその後の詳細は不明です。
このモデルについて
Helvetiaの1/1250スケール、レジンキャストモデルです。
就航当時の姿で船尾の2基のローディングデッキが残っています。
造形や船体塗装は良い出来でこれもほとんど手を加えていません。
オリジナル 船首から
オリジナル 船尾から
船首部
船体中央部
船尾部